鍼灸治療は、2000年以上前の古代中国で誕生した東洋の伝統医療です。この治療法には、薬物療法である湯液(漢方薬)と、鍼灸が含まれます。日本には、仏教伝来の約10年後、飛鳥時代に伝わったとされています。その後、鍼灸は江戸時代から明治初期にかけて日本の医療の中で大きく発展しました。特に江戸時代には、専門書籍が多く出版されるとともに、一般向けの啓蒙書にも鍼灸治療が頻繁に記載されました。例えば、松尾芭蕉の『奥の細道』には、灸治療や「足三里穴」というツボについての興味深い記述があります。
しかし、明治時代以降は西洋医学が医療の中心となり、鍼灸は一時的にその影響力を失いました。それでも、1972年に中国で鍼麻酔が報道されたことを契機に、日本でも鍼治療の基礎研究と臨床研究が進展しました。さらに、1997年には米国国立衛生研究所 (National Institute of Health: NIH) が合意形成声明を発表し、これをきっかけに鍼灸治療への関心が世界的に高まりました。近年では、特に欧米においても鍼灸の臨床応用や研究が進められています。
鍼は、専門的には「毫鍼」と呼ばれるもので、先端が尖った細長い刺入用の鍼です。その形状は古代からほとんど変わっていません。鍼の長さは10mmから150mmの17種類、直径は最も細いもので0.10mm、太いものでは0.50mmまでの21種類があり、これらの組み合わせが存在します。近年では感染防止の観点から、ステンレス製の滅菌済みディスポーザブル鍼が広く普及し、衛生面での安全性が向上しています。また、短い「皮内鍼」や「円皮鍼」と呼ばれる鍼もあり、円皮鍼は新たな改良が進み、スポーツ医学や産業医学、支持医療の分野で研究が進められています。その他、皮膚を貫かない小児向けの「接触鍼」や「ローラー鍼」なども利用されています。
灸は、モグサ(艾)を適量手指でひねって形を整え、皮膚に置いて線香で点火し、温熱刺激を与える施術法です。モグサは、ヨモギの葉の裏に密生する毛茸や綿毛を乾燥・分離して作られます。灸には、大きく分けて2つの種類があります。ひとつは、皮膚に直接モグサを乗せて燃やし、灸痕を残す「有痕灸(直接灸)」、もうひとつは、物や空気を介在させて灸痕を残さない「無痕灸(間接灸)」です。近年では、火を使わず温度調節が可能な電気温灸器も開発され、多様な施術が行えるようになっています。
鍼治療の作用機序に関する研究は、1970年代頃から多く報告されており、特に鎮痛に関連するメカニズムが注目されています。以下に代表的な鍼の鎮痛機序を概説します。
脊髄視床路の側枝を起点とする中脳水道周囲灰白質や中脳網様体から形成される下行性疼痛調節経路が知られています。この経路は、一次求心性神経が伝える侵害情報を脊髄レベルで抑制する生体防御機構の一つです。抑制経路には以下の2種類があります:
これらは共に脊髄後角での侵害入力を抑制します。鍼刺激は、この抑制系を賦活することで鎮痛作用を示すと考えられています。
鍼に電極を取り付けた「鍼通電刺激療法」において、高頻度(30~100Hz)の刺激では鎮痛効果が速やかに現れ、刺激中止後はすぐに消失します。一方、低頻度(1~10Hz)の刺激では、鎮痛効果が緩徐に現れ、刺激中止後も持続します。この低頻度刺激の効果は、オピオイド拮抗薬であるナロキソンによって阻害されるため、内因性オピオイドが関与しているとされています。
代表的な内因性オピオイドであるβエンドルフィンは以下のように作用します:
また、βエンドルフィンはμオピオイド受容体を介して下行性疼痛調節機構を賦活するほか、扁桃体や帯状回など情動系の制御にも関与すると考えられています。さらに、高頻度刺激ではダイノルフィン、低頻度刺激ではβエンドルフィン、エンケファリン、エンドモルフィンが関与することが近年明らかになっています。
鍼通電刺激による触覚の伝達は、以下の2種類の神経線維を介して脊髄に伝えられます:
触覚受容器が興奮することで、痛覚情報を抑制する働きが脊髄後角で生じます。これは、「痛みがある箇所を擦ると和らぐ」という現象と同じ仕組みであり、gate control theory(ゲートコントロール理論)として知られています。現在では、この理論が示す脊髄後角でのメカニズムが当初よりも複雑であることが明らかになっていますが、鍼刺激がこの調節機構を活性化すると考えられています。
鍼刺激は侵害受容線維を興奮させ、同じ神経線維の分枝に遠心性興奮を伝えます。その結果、神経終末から以下の物質が放出されます:
これらの物質は血管を拡張させ、皮膚や筋肉の血流を改善します。この機構により、刺激部位周囲に**flare(紅斑反応)**が現れることが確認されています。また、筋の血流改善を通じて「痛みの悪循環」を緩和すると推測されています。
鍼刺激によって局所でアデノシン濃度が増加し、アデノシンA1受容体を介して鎮痛効果を発揮することが報告されています。この効果は、アデノシン受容体阻害薬であるカフェインによって拮抗されることからも確認されています。さらに、近年では、鍼刺激によるアデノシンの放出源として、局所の肥満細胞が関与しているとの研究報告もあります。
2018年、Cochraneは鍼治療の有効性を肯定的に示した疾患として、以下のような例を挙げています。一時性頭痛、episodicな片頭痛、緊張型頭痛、術後の嘔気・嘔吐(鍼に限定しない経穴刺激)、原発性月経困難症、妊娠中の腰痛・骨盤痛、陣痛などが含まれます。また、日本国内の診療ガイドラインにおいても、いくつかの疾患や症状に対して鍼治療の有効性が認められています。
例えば、『頭痛の診療ガイドライン2021』では、以下の項目において鍼治療が記載されています:
さらに、『慢性疼痛管理のための診療ガイドライン』では、以下の疾患・症状に対しても鍼治療が推奨されています:
このように、鍼治療はさまざまな疾患や症状において有効性が示されており、特に慢性疼痛管理や頭痛の治療分野で重要な選択肢の一つとなっています。